文源橋

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明の洪武24年の状元黄観を記念するために建てられた橋なので、元々は「黄公橋」と呼ばれた。東石坝街に住んでいた安徽貴池の人黄観は郷試、会試、殿試のどれにも一位を得たので「三元及第」と呼ばれた。その後燕王朱棣が多くの人を殺害しようとする際に、黄観は積極的に反対した。その結果、奥さんが捕まえられて脱出したが、淮青橋で秦淮河に身投げをして死んでしまった。黄観はその訃報を知るや否や、貴池で金陵に向かって身投げをした。後世の人は黄観を記念するために、嘗て住んでいた所に黄公祠を建て、また「黄公橋」という木造の橋をも造った。1997年、中国伝統的な儒家文化の歴史が長いという意味を示すために、「文徳橋」と呼応した「文源橋」に改名した。

 

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