明の初代皇帝朱元璋が都を南京に決めた後、洪武五年(1732)の正月、朱元璋は秦淮河に水灯をつけたことを通し、戦死した軍民を祭るという勅命を下した。それで、秦淮の灯街が段々盛んになり、しかも、河両岸の建物も段々起き、河中の画舫も繁栄しつつある。秦淮の周りに舞台で歌って、楽器を演奏するという繁華な光景があらわれた。言い伝えによれば、洪武のある年八月十五日の夜、朱元璋は軍師の劉伯温とともに私服で出たそうである。彼たちは主人と召使いを変装し、こっそりと皇居を出て、秦淮の夜景を観賞した。しかし、その日、あいにくの天気になり、どんよりしている空に月もなかった。劉伯温は画舫を雇って、朱元璋と船の中でお酒を飲んだ。また、船主に画舫の周りに灯りをつけさせ、酒興を助けた。席上、劉伯温は主人の気晴らしを盛り上げたために、話題を朱元璋の興味を持つ対聯の面に引いた。劉伯温は周りを見まわし、眼前の情景に即して感興が湧いて、「中秋月が見えずして,幾盏の灯を点して河山の為色を生かし。」という上句をつくり、それを受けて即座に、朱元璋は「啓蟄雷を聞かずして,数声の鼓を撃ちて天地代り威を宣ぶ」と下句を出したという。劉伯温は下聯を聞いてから、思わずに机をたたいて絶賛したそうである。朱元璋と劉伯温はゆっくり進んでいる船の中で、道中の景色、あるいは料理屋、あるいは女性の歌手の歌を楽しみ、詩を吟じ対聯を作り、興趣がつきなかった。席散の後、朱元璋と劉伯温は接岸し、また遊覧した。岸の上に酒屋の看板が揺れ動き、琴瑟の歌声が絶えなく、きれいに飾った青年男女が押し合いへし合いした。彼たち二人は美人を見て、楽器の演奏を聞いて、秦淮河畔で遊びにふけって帰らず、深夜まで帰らなかったという。宮へ帰る途中、朱元璋はまた興に乗じて、秦淮に関する連句を一組吟詠したという:
「佳山佳水、佳風佳月、何千年かの佳地にて、
痴色痴声、痴情痴夢、何千代かの痴人なり」